1月16日0時35分、私の祖母が亡くなりました。
度々このブログでも、元気な100歳として取り上げさせていただいた祖母が急に逝ってしまいました。
呼ばれたのか、自ら選んだのか、私の父=祖母の息子の命日と全く同じ日に旅立ちました。
父が亡くなって丸10年が経った日のことでした。

昨年の秋頃から、食べても栄養が吸収しにくくなり、腎臓の働きも徐々に悪くなって水が少しずつ溜まるようになり、高カロリーのジュースを飲みつつ、利尿剤も飲んで出すということで、のらりくらりと対処しておりました。
12月の初めには、毎週見舞いに行っている私のことが分からなくなり、本格的な”老い”が始まったなと感じておりました。

それでも、自分の手で食事を摂り、トイレには自ら手を上げて連れて行ってもらっていました。

12月末頃から何度か食事を食べない日がありましたが、食事をゼリー状にするなどすれば食べてもらっていました。

それが今月11日、状況が一変します。
11日の昼過ぎに、施設の方より「舌が出て、全く食事が摂れない」と連絡をもらいます。
夕方行ってみると、車いすには座っていましたが、じっと眼をつむったまま、ベロを出していました。
意識はあって、手足に力も入っていましたが、舌を引っ込めることも含め、何も飲み込めなくなっていました。一種の脳障害になったのだと思います。

そこからの5日間は、まさに祖母らしい力強い最期だったと思います。さすが戦中戦後を生き延びた人だなと。
血管が細すぎて点滴もできず、血圧が下がるからと座薬も使えず、酸素マスクもせず自発呼吸で、飲まず食わず、丸5日間、意識を持って生き続けました。
「胃ろう」の方法が取れたかもしれませんが、これまで102年と10ヶ月、大きな手術も大きな病気もしなかった祖母。親族で話し合い、延命治療はしないことに決め、何の管も付けることなく、人として自然な形での死を迎えることにしました。
最後は、見守る方がとても忍びなかったですが。。。

最後まで肺炎にもならず自ら心臓を動かし続け、大体の親戚との面会を果たし終えたその夜、体温が低下し、呼吸が浅くなり、スーッと消え入るように尊厳をもって死を迎えました。

「ザ・晴れ女」だった祖母。
しぐれていた16日の朝も施設からお寺に帰るときは晴れ間をのぞかせ、18日のお通夜は風のない穏やかな夜に、19日の葬儀は3月を思わせるような暖かな快晴にしてしまいました。
晴れ渡る空の下、多くの檀信徒・町内一般・親族の方々とともに、”晴れやかに”死出の旅路へと送ることができました。
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晩年の6年間、とても楽しく有意義に過ごさせていただいた「特別養護老人ホーム そらの木」の皆々様、誠に有り難うございました。この場をお借りして改めて御礼申し上げます。
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これから四十九日間、親族一同、祖母の菩提を弔うべく、しっかりと供養に努めたいと思っております。南無妙法蓮華経。