2016年06月
先日、熊本県益城町の災害ボランティアに2泊3日の日程で参加してきました。
ボランティア先でも乗用車がある方が何かと便利で、『災害派遣等従事車両証明書』を役所で発行してもらうことで、高速道路代金が無料になるので、片道800㎞、休憩含めて10時間ちょっとの道のりを、車で行ってきました東北よりは近かったですが、やはり京都からはかなり遠く感じました。
熊本市内のビジネスホテルなどは軒並み被災者の避難所になっているらしく、全く取れず、福岡県の久留米市で宿泊しました。現地まで80㎞(1時間15分)の道のりを通いました
震災からもうすぐ2ヶ月が経とうとしてます。
益城町から少し離れた熊本市内は、ところどころでまだ石灯籠が倒れたり、ブロック塀が壊れたりしてはいましたが、普通の生活が送られているように見えました。
しかしそれとは対象的に、被害の大きかった益城町の復興はまだまだという感じでした。車で走っていると、動いた断層の周辺がメチャクチャにやられているのがよく分かりました。町全体をゴジラか何かが通り過ぎていったかのように、そこかしこで家やビルがグチャグチャに倒壊していました。写真は、撮る気にもなりませんでした。。。
それでも、少し田舎に行くと、砂利で埋めただけのところもありましたが、ライフラインの道路はアスファルトを敷いて見事に復旧が進み、普通に車で走れました。この辺りのスピードはさすが日本と思いました
東北では津波の恐ろしさを痛感しましたが、今回は地震の本当の恐ろしさを思い知らされました。
朝8時半からの受付には、テントから溢れんばかりたくさんのボランティアの方々が集まっていました。
生憎の雨でしたが、オリエンテーション、依頼内容とボランティア参加者のマッチング、リーダー決め、必要な道具類の積み込みとスムーズに進んでいきました。
車3台に11人が分乗して、農家の全壊した納屋のゴミの仕分け作業に向かいました。
依頼者宅に到着し、道具類を下ろし、仕事内容の確認をしていると、ベテランのリーダーが疑問に思われました。罹災証明が発行された場合、ゴミの別なく、公費ですべて撤去してもらえるのに、なぜ仕分け作業が必要なのかと。
依頼者に話を聞いていくと、人が来て、処分には仕分けが必要だが、うちは350人体制でやっているから、いつでも言うて下さいと言われたとのこと。それで、そこに頼んだらお金がかかるしと、今回、このお家はボランティアに依頼されたというわけですが、言葉を信じて、しなくてもいい作業にお金を支払っている被災者がいるのかと思うと腹立たしく思ってしまいました
結局、何もせずに引き上げることになったのですが、「ボランティア」が思わぬ形で少しだけでも役に立てたのかなとは思いました・・・。
帰り際、依頼者が御礼にとすいかを振る舞って下さいました。何もさせてもらっていないのにと思いつつ、依頼者の何とも申し訳なさそうな気持ちも感じて、たくさんいただきました美味しかったです(>_<)
それから、ボランティアセンターに戻って、まだボランティアの依頼があるかを確認すると、タイミングよくすぐに見つかりました。8人の要請でしたが、11人、午前と同じメンバーで行くことになりました。
早めに昼食を済ませ現地へ。午後はブロック塀の解体作業でした。2段目から倒れた8段12メートルのブロック塀を撤去してほしいという依頼でした。
午前の分の力が有り余っていたからか、半日では終わらないと思われた作業が、ものすごいスピードで進み、3時間弱ですべて終わってしまいました
大分から来られていた元気いっぱいの消防士3人組がハンマーで次々と解体していき、主婦や学生の女性の方々が運搬・仕分けに精を出す。自然といい具合に役割分担ができていたことも非常にスムーズに終わった要因だったと思います。
依頼者のご主人も喜ばれ、御礼にとガリガリ君をご馳走していただきました。昼からは朝の雨が嘘のように、カンカン照りの晴れになり、アイスの冷たさが身体中にしみわたりました
食べながらご主人と少し話ができたのですが、「この辺りに住んでいるのはほとんど70代。一人暮らしも多い。片付きはしてもこの先どうなっていくのは分からない」 とポロリと仰ったのがとても印象的でした。東北もそうですが、これからもまだまだ様々な支援・復旧活動が必要だと感じました。
ボランティアセンターに戻り、最後の挨拶を交わした後解散し、数㎞離れたところにある町営(?)の銭湯に行って汗を流しました。そういうコースができているのか、たくさんボランティア終わりの方々を見かけました。お風呂に入るのも少しは地域のためになったと思います
それから、暗くならないうちに、加藤清正公のお墓のある熊本の名刹、本妙寺様にお参りしました。熊本市内にあり、堂宇の外見は大丈夫なようでしたが、石灯籠などは崩れ落ちたままになっていました。
夜は、熊本市内で、復興支援という気持ちで、張り込んで夕食をいただき、お土産もたくさん買わせてもらいました。久留米まで車で戻らなければならず、お酒を一滴もいただけなかったのは心残りでした(笑)
実は、3日目も午前中だけでもボランティアをして帰る予定をしていたのですが、急な法務が入ったため、3日目の朝4時に京都に向けて出発。夕方までには自坊に無事到着し、慌ただしい3日間が終わりました
振り返れば本当に短い間でしたが、少しだけでもお手伝いできて良かったです。自己満足なだけかもしれませんが、何とかしたいという気持ちが少しだけでもすっきりしたように感じています
ただ、ホントに何も終わっていません。ここにいてできること、東北同様、この地域のことを思い、一刻も早い復旧・復興の祈りをささげることを今後も続けていきたいと思います。
最近、身内の記事しかあげてないような(^_^;
相変わらず法務でバタバタさせていただいておりますが、あまりにいつも通りで記事にあげるほどのことがなかったからなんです…
さて、昨日は、ついに実現おばあさんの百歳の誕生日パーティでした。
百歳のお祝いは、紀壽といったり、百壽(ももじゅ)といったりするそうです何かかわいい響きですね(笑)
これは数え年でするものなので、おばあさん実は今年数え年では101歳なんですが、満年齢の100歳でさせていただきました
近くに住む親戚だけでしたが、子、孫、ひ孫と総勢15名での誕生日会久々にこれだけ多く集まれました
介護タクシーで京都駅の伊勢丹まで
「松山閣」という処で、ゆばの会席料理をいただきました
昨日はとても気分が良かったようで、よく笑い、鼻歌も歌っていました私たちでも多いくらいの料理でしたが、真剣にいっぱい食べていました。すごい食欲
鯛のあら煮に赤飯と、お店の方も気を利かせていただきました。有り難かったです
最後に、おばあさんの娘さん3人からカーネーション(母の日のある月なので)とみんなから盛り花をプレゼントしました
記念写真の後、ちょっと喫茶店に入ったのですが、私の小さい頃、おばあさんの実家のお墓参りに親戚で行って、どこかの百貨店でお茶をしてたシーンが蘇りました。何とも懐かしい気分になりました
ちゃんと施設に送り届けた別れ際、「嬉しいかったわ~」と言って、涙を流すのかと思いきや泣くフリをして笑っていたところに、とてつもない元気さを感じました(笑)
ヨシエちゃん、100歳、元気です